諏訪の神様のこと

これから書くことは、民俗学的推論が2割。そこから自由に飛躍しての妄想が8割の話である。
前にも書いたが、神話というものの成立の下地を考察することは楽しい。あまりに古い事が多すぎて、資料があまり残っていないからだが。

諏訪に用があって行く事になった。
だから、少し諏訪大社の神さんのことを考えてみた。
諏訪大社の神さんの神格は東日本一なのではないかと感じる(ちなみに、日本一は大神神社の神さん)。
水の神様と同時に地伏せの神様ではないかとも感じる。正確には、大地の中を流動するものの統括を行っている神様で、地伏せのことが最優先で人のことなど二の次ではなかろうか。
だからこそ、フォッサマグナの上に鎮座されている。
上社が姉神で、下社が弟神。
姉神は綺麗な白い細身の大蛇で、諏訪湖の下に鎮座されており、日々思索を練られていらっしゃる。
姉神様が外に出られないのは、弟神に止められているから。恋多き神さんで、時には仕事が疎かになりかけるから。
聡明で、優しいけれど、冷徹でもある。そして、乙女。この地に生まれて数百万年経つのに、未だに恋に恋する乙女である。
弟神はフットワークの軽い神様。人の形に少し似ているけれど、でも、細い四肢が異常に長い神さん。動くときには四足で動かれる。東日本に広く分布する「手長足長」という妖怪の原型にもなっている。茨城の「土ぐも」もこの系譜にあたる。
弟神は、誠実で、はしっこく、そして姉髪の意思を忠実に実行するという役目を担っている。諏訪に居ることは少なく、大体は、大地の上を縦横無尽に走り回っている。地伏せへの傾倒が強く、人への興味は極めて希薄である。
この姉弟神の最大の興味は、日本列島を穏やかに裂いて行くこと。
地溝帯に沿って列島が裂けて行くのは理であり仕方のないこと。ただ、東と西との日本の神さんたちを分断する形ではなくて、新たに、列島が避けた後も維持される様な縁の糸を丁寧に編み、それを既存の縁の糸と差替えていくという作業を地道に続けられている。
姉神が編み、弟神が差し替えるという役割である。

人は自分の都合と欲で神さんたちを崇め奉っているが、神さんの方が人の方を向いていることは少ない。
人の口にする神さんの名が、本来の神さんの名と一致したことなどない。
大体、人のつけた神さんの名こそ、人の中に淀む欲望の具現でしかないわけだし(←この一文だけは宗教的・妄想的解釈ではなくて、民俗学的解釈です、念のため)。
それは諏訪様とて同じ。
人よりも、地伏せ、大地の理と向かい合うことの方が何万倍も重要なのである。

・・・なんて妄想を頭の中で巡らせていた。

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